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2020年 5月 14日 なかなかなブログ①
皆さん初めまして。今年度から茗荷谷校の担任助手になりました中孝太と申すものです。
日本大学芸術学部演劇学科に通ってます。
このブログを読んでいる人は茗荷谷校に興味を持っている人、茗荷谷校の担任助手で勤務中暇つぶしに観ている人(こら仕事しなさい)、その他のどれかには当てはまるのではないでしょうか。
その皆さんが読んでいるときに少しの笑いと少しの知恵を拾ってくれる、そんなブログを目指して頑張ろうと思います。以下、簡単な自己紹介です。
出身高校 筑波大学附属高校
部活 野球部
受験科目 英語 世界史 国語 面接 文創作
東進入学時期 高1の4月
好きなこと 映画鑑賞 お笑い 自分が面白いと思うこと全部
さて今日のブログのテーマは「映画や演劇、小説など多種多様な形で表現される「物語」がこの世に存在する意味はなんなのか?①」でいこうと思います。 (好評だったら次の出番でまた書きます。違う内容になってたら察してください)
これを見ればあなたの現代文の点数が上がるかも?、というのは「?」の域を脱しませんが違う視点ぐらいは得られるとは思います。
さて、「物語」が存在する意味とはなんなのか。
もちろん人それぞれ「物語」に対する価値観は違うとは思いますがこの答えとして簡単に思いつくのは「面白いから」ではないでしょうか。
面白いというのにはただ単に楽しいというだけではなく悲しかったり笑ったり考えさせられたりといろいろな形があります。
今回はもう一歩突っ込んでどのようなときに面白いと感じるのかを考えようと思います。
例えばお笑い。漫才やコントなども何かを演じることによって成立することが多いので、大きな枠でまとめれば物語に含まれるとでしょう。ここで注目してほしいのがいわゆる「一発屋芸人」と言われる存在。彼らは一時の間爆発的な「面白い」を生産します。しかし気づけば飽きられ、いつの間にか消えていきます。
これには一発屋芸人の悪癖と「面白い」と「笑い」の性質が絡むことによって生まれる確かな理由があります。
かの有名な松本人志もこのようなことを言っています。
「笑いは生ものである」
これは深い、深すぎる。今すぐにでもこの名言の意味を先に挙げた三者の関係と紐づけながら説明したい・・・。ですが、
残念ながらそれを書くにはこの余白は狭すぎるbyナカール・ド・フェルマーということで今回は終わろうと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。また会うその日まで。
#東進 #茗荷谷 #予備校 #入学